Castle record

坂戸城

(さかとじょう)

Castle information

坂戸城の基本情報

訪城時の記録をもとに、所在地・史跡情報・現地の見どころをまとめています。

所在地
新潟県南魚沼市坂戸
史跡指定
国指定史跡
現在の状態
本文・写真で現地の様子を紹介
主な遺構
石垣・虎口
主な見どころ
坂戸城内堀跡/上杉景勝・直江兼続生誕地の碑/一本杉からの眺望
訪城写真
9枚掲載
坂戸城内堀跡
坂戸城内堀跡

城の歴史

鎌倉時代頃に清和源氏流新田氏一族により城郭が形成されていたと推測される。
文和年間(1352年~1355年)越後守護職・上杉憲顕の家臣である長尾氏の一族が上田荘を領し、坂戸城を拠点として領国支配を始めたと伝わる。
永正4年(1507年)守護代・長尾為景は守護職・上杉房能の居館を襲撃、房能を自刃に追い込むと房能の婿養子・上杉定実を傀儡として守護に擁立し府中の館に入れた。
天文19年(1550年)守護代長尾氏の傀儡であった守護・上杉定実が死去すると春日山城主の守護代長尾氏当主・長尾景虎(上杉謙信)は将軍・足利義輝から白傘袋と毛氈の鞍覆の使用を許され、実質的な国主大名となった。
天文20年(1551年)長尾景虎(上杉謙信)を敵対視していた上田長尾氏の長尾房長・政景親子は謀反を起こし坂戸城に籠城、会津黒川城主・蘆名盛氏の助勢に期待しての行動であったが、景虎が先手を打ち蘆名側に長尾房長・政景親子は謀反人であると通告、大義のない蘆名氏は動く事はなかった。
景虎の軍勢に坂戸城を包囲され、長尾房長・政景親子は降伏、景虎の軍門に降った。
天正6年(1578年)関東出兵の準備を進めていた上杉謙信が春日山城内で急死、謙信の養子である景勝(実父・長尾政景)と景虎(実父・北条氏康)が家督を巡り対立、景勝は軍事拠点の春日山城を、景虎は政治拠点の御館を押えた。
実弟・上杉景虎の援軍要請を受けた小田原の北条氏政は、北条氏照、氏邦に大軍を与え越後に出陣を命じた。
三国峠を越えて越後に侵攻した北条軍は、景勝方の荒戸城を攻略、次いで樺沢城を奪取した。
北条軍は樺沢城に本拠を置くと坂戸城の攻略に着手したが、雪で街道が塞がれる冬の到来前に本国へ帰還するため撤退し、翌年、景勝は手薄となった御館に総攻撃を開始、御館は方々に放火され落城したが、景虎は館を脱出して逃亡、味方である鮫ヶ尾城に寄った所を景勝方に寝返った城主・堀江宗親に攻められ自害した。
事実上、上杉謙信の後継者となった景勝は春日山城主となり、坂戸城は春日山城の有力な支城として領国経営の重要拠点となった。
景勝は樋口兼続(直江兼続)をはじめとする上田衆を側近として重用し、重要拠点である坂戸城主に兼続を任じている。
慶長3年(1598年)上杉景勝は豊臣秀吉の命によって会津120万石に加増移封となり、越後には越前から堀秀治が入封、坂戸城には秀治の家臣・堀直寄が入城し山麓の居館部を中心とする近世城郭へと改修した。
慶長15年(1610年)堀直寄が信濃国飯山に移された後、坂戸城は廃却された。

坂戸城内堀跡
坂戸城内堀跡
上杉景勝・直江兼続生誕地の碑
上杉景勝・直江兼続生誕地の碑
一本杉からの眺望
一本杉からの眺望
お茶の清水跡
お茶の清水跡
内堀跡
内堀跡
家臣屋敷跡
家臣屋敷跡
御館の虎口
御館の虎口
御館の石垣
御館の石垣
御館の石垣
御館の石垣