城の歴史
南北朝時代は鞠子城と称し、新田義貞の家臣・田中右衛門尉が居城したと伝わる。
天文20年(1551年)長尾景虎(上杉謙信)が越後を平定、景虎は姉の綾姫を坂戸城主・長尾政景に嫁がせ樺沢城の改築を命じ、関東遠征の際の宿所とされた。
弘治元年(1555年)樺沢城に居していた政景夫人・綾御前(仙桃院)に男子が誕生、卯ノ松と名付けられた。
永禄7年(1564年)父・政景が宇佐美定満と舟遊び中に溺死、卯ノ松は春日山城に入って叔父・上杉政虎(謙信)の養子となり元服して喜平冶(顕景)と称した。
天正3年(1575年)長尾顕景は上杉景勝と改名、謙信から弾正少弼の位を譲られ上杉一門衆筆頭となった。
天正6年(1578年)関東出兵の準備を進めていた上杉謙信が春日山城内で急死、謙信の養子である景勝(実父・長尾政景)と景虎(実父・北条氏康)が家督を巡り対立、家臣団は景勝方と景虎方の二手に別れて争った。
実弟・上杉景虎の援軍要請に応じた相模の北条氏政は北条氏照、氏邦に大軍を与え越後に出陣を命じた。
北条軍は三国峠を越え越後・上田庄に侵攻、景勝方の樺沢城を奪取した。
北条軍は樺沢城に本拠を置くと坂戸城の攻略に着手したが、雪で街道が塞がれる冬の到来前に本国へ帰還するため撤退し、樺沢城には北条輔広・河田重親を配し守備させた。
天正7年(1579年)2月、景勝は手薄となった御館の総攻撃を開始、御館は方々に放火され落城したが、景虎は館を脱出して逃亡、味方の城である鮫ヶ尾城に寄った所を景勝方に寝返った城主・堀江宗親に攻められ自害した。
事実上、上杉謙信の後継者となった景勝は樺沢城も奪回、栗林政頼に樺沢城主を命じた。
慶長3年(1598年)上杉景勝は豊臣秀吉の命によって会津120万石に加増移封となり、樺沢城は廃城となった。





















