城の歴史
天正6年(1578年)7月、北条氏の越後侵入を阻止するために上杉景勝が登坂与衛門尉らに命じて築城した。
天正6年(1578年)関東出兵の準備を進めていた上杉謙信が春日山城内で急死、謙信の養子である景勝(実父・長尾政景)と景虎(実父・北条氏康)が家督を巡り対立、景勝は軍事拠点の春日山城を、景虎は政治拠点の御館を押えた。
実弟・上杉景虎の援軍要請を受けた小田原の北条氏政は、北条氏照、氏邦に大軍を与え越後に出陣を命じた。
北条方の動きに対し上杉景勝は、関東からの進入路である三国街道の要衝に築城を命じ、北条軍の越後侵攻阻止を図った。
しかし8月、三国峠を越えて越後に侵攻した北条軍は、景勝方の荒戸城を攻略、次いで樺沢城を奪取した。
北条軍は樺沢城に本拠を置くと坂戸城の攻略に着手したが、雪で街道が塞がれる冬の到来前に本国へ帰還するため撤退し、翌年、景勝は手薄となった御館に総攻撃を開始、御館は方々に放火され落城したが、景虎は館を脱出して逃亡、味方である鮫ヶ尾城に寄った所を景勝方に寝返った城主・堀江宗親に攻められ自害した。
事実上、上杉謙信の後継者となった景勝は樺沢城を攻略、北条勢を越後から完全に撤退させると荒戸城の奪還にも成功し富里氏、栗林氏などを城代に置いて三国街道の監視にあたらせた。
慶長3年(1598年)上杉景勝は豊臣秀吉の命によって会津120万石に加増移封となり、荒戸城は廃城となった。



















