城の歴史
詳細な築城年代は不明。
14世紀初頭は泉氏の居城であったが、後に高梨氏館を本拠とする高梨氏の支城となった。
永禄2年(1559年)3月、北信濃に勢力を伸ばす甲斐武田氏の海津城代・春日虎綱(高坂昌信)の攻撃により高梨氏館は陥落、根拠地を追われた高梨政頼は飯山城へと撤退し、以後の高梨氏は独立国人領主としての力を失ったため、越後の上杉謙信を頼らざるおえなくなった。
永禄7年(1564年)越後の上杉謙信は甲斐の武田信玄に対抗して、越後の防御・信濃計略の前線基地として大規模な改修を施した。
天正10年(1582年)以降は越後の上杉氏の支配となり、城代には岩井信能が置かれた。
後に、豊臣秀吉の家臣・石川光吉が代官として千曲川両岸を支配したが、慶長3年(1598年)には関一政が3万石で入封した。
慶長8年(1603年)松平忠輝の家老・皆川広照が飯山藩主として4万石で入封したが、忠輝のもとで敏腕を振るっていた家老・花井吉成を讒言し、忠輝の不行跡を幕府に訴えたところ、逆に家老として不適格との指摘をうけて改易となった。
その後、堀氏、佐久間氏、桜井松平氏、永井氏、青山氏と城主が代わり、享保2年(1717年)本多助芳が越後糸魚川より入封し、以降は明治維新まで本多氏の居城となった。
















