城の歴史
天正10年(1582年)6月、本能寺の変により織田信長が横死し、同年2月に信長によって滅ぼされた武田家旧領、上野・甲斐・信濃の統治が困難になった織田家臣が相次いで撤退すると空白地となった武田旧領を巡る騒乱が勃発した。
当初、北条家に属していた真田昌幸は北条家と敵対する徳川家康に寝返ると、西上野を巡って北条家と敵対した。
しかし10月には真田家の上野沼田領を北条領、北条家が攻略した信濃佐久郡を徳川領とする事で北条・徳川の和議が成立した。
天正11年(1583年)、昌幸は信濃上田・小県地方制圧の拠点として上田城の築城に着手、当初は北側に予定していた大手門を対徳川を想定し東側へと変更した。
天正13年(1585年)昌幸は家康の沼田領明渡し命令を拒否すると、徳川・北条と敵対する越後の上杉景勝に子・真田信繁(幸村)を人質として差し出す事で臣従し、徳川より離反した。
浜松にて真田家の造反を知った家康は激怒し真田討伐を下知、8月に鳥居元忠・大久保忠世・平岩親吉ら約7千の軍勢が真田本拠・上田城攻略を開始したが、僅か千二百の手勢で守る昌幸は、地の利を活かした戦略や類稀なる策謀を用いてこれを撃退した。
慶長5年(1600年)豊臣秀頼政権五大老筆頭・徳川家康は、五大老の一人で会津の上杉景勝に謀反の兆しありとして上杉討伐を下知、会津へ向けて進軍を開始し、昌幸も家康に従い参陣した。
家康不在の隙を狙い五奉行の石田三成が大阪で挙兵すると諸大名に家康弾劾の書状を送るなど多数派工作を開始、下野国犬伏で三成の書状を受け取った昌幸は、嫡男・信幸を徳川方(東軍)に残し、自らは石田方(西軍)へ与するべく次男・信繁(幸村)と上田城へ引き返した。
家康は徳川秀忠に約3万8千の大軍を与え、本多正信・榊原康政・大久保忠隣をつけて中山道制圧を命じた。
江戸を発した秀忠の軍勢は、西軍へ与した昌幸が2千の手勢で籠城する上田城を包囲、降伏勧告の際の昌幸の態度に激怒した秀忠は上田城の総攻撃を開始したが、老練な昌幸の策謀・戦略の前には歯が立たず、結局、家康よりの上洛命令もあって上田城攻めを断念した。
慶長6年(1601年)関ヶ原合戦での東軍の勝利によって、西軍に与した真田昌幸・信繁(幸村)親子は紀伊国九度山に配流、上田領には東軍に与した嫡男・信幸(のちに信之に改名)が入封すると信濃上田藩の初代藩主となった。
徳川家によって上田城は破壊され、信幸は三ノ丸跡地に居館(陣屋)を構えたが、事実上、城郭としての上田城は廃城となった。
元和8年(1622年)真田家は信濃・松代藩へと移封され、信濃上田藩には信濃小諸藩より仙石忠政が6万石で入封した。
仙石氏の時代に上田城の再建が進められたが、藩主の死去に伴い本格的な再建は行われなかった。
宝永3年(1706年)3代藩主・仙石政明が但馬出石藩へ移封、以降は藤井松平氏が明治維新まで上田藩主を務めた。
















