城の歴史
享徳4年(1455年)享徳の乱の際、鎌倉から下総国古河に移座した初代古河公方・足利成氏により築かれたと伝わる。
長禄元年(1457年)成氏が立崎の古河城へ移って以降、当館についての史料が乏しいため詳細は判らない。
天正11年(1583年)足利義氏が没し、義氏の嫡男・梅千代王丸は早世していたため義氏の後継者が定まらず、古河公方の家臣団は梅千代王丸の姉・氏姫を古河足利氏の後継として擁立した。
天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐により北条氏は没落、氏姫は秀吉の発した古河城破却令に従い古河公方館へ入り、翌年、秀吉の命で祖父の代より敵対していた小弓公方・足利義明の孫・足利国朝と結婚、秀吉は国朝に下野国喜連川400貫を与え国朝は喜連川に入ったが氏姫は古河公方館に在住した。
この婚姻の結果、鎌倉公方以来の関東公方家は再び統一され、下野国喜連川氏として江戸時代へ継承される。
文禄2年(1593年)国朝が病没すると、国朝の弟・頼氏と氏姫の婚姻が成立、慶長4年(1599年)には義親が生まれた。
氏姫は義親夫妻とその子・尊信とともに古河公方館に居住し、元和6年(1620年)に生涯を終えた。
寛永4年(1627年)義親の死去後は尊信が残っていたが、寛永7年(1630年)喜連川藩主で祖父の頼氏が死去、幕命により家督を継ぐ事となったため古河を離れた。
残された古河公方館は廃され、時宗十念寺の寺域となった。










