城の歴史
応永21年(1414年)二本松満泰が築いたと伝わる。
天正13年(1585年)伊達政宗と争っていた二本松義継は政宗の父・輝宗に降伏の調停を依頼した。
宮森城の輝宗のもとに出向いた義継は輝宗を拉致して二本松城へ連れ去ろうとしたが、これを聞きつけた政宗に輝宗もろとも射殺された。
政宗はすぐに二本松城攻めを開始したが、守備側は義継の子・国王丸を継嗣に立て籠城、城は政宗の猛攻によく耐えたが、翌年の7月16日、政宗への内通者も出たため、相馬義胤の口添えにより二本松城は開城し二本松氏は滅亡した。
政宗は片倉景綱、次に伊達成実を二本松城代とした。
天正19年(1591年)豊臣秀吉の命で政宗が岩出山城に転封となり、二本松城は若松城主蒲生氏郷の支城となり、城代に蒲生郷成・町野重仍を配した。
慶長3年(1598年)蒲生氏に代わり越後国春日山より上杉景勝が会津に入封、下条忠親が二本松城代となった。
慶長5年(1600年)徳川家康は関ヶ原の合戦で西軍に与した上杉景勝を出羽国米沢に移封、会津には蒲生秀行が復帰し、梅原弥左衛門と門屋勘右衛門が二本松城代となった。
寛永4年(1627年)蒲生氏が伊予国松山に移封となり、蒲生氏と入替わりで伊予松山より加藤嘉明が入封、二本松城には加藤氏与力の松下重綱が置かれたが、翌年に重綱が没すると子・長綱は三春城に移され二本松城には嘉明の二男・明利が入城した。
寛永20年(1643年)加藤氏は改易となり、白河小峰城より丹羽光重が入城、光重は二本松藩庁として大改修を行ない、以後、明治維新まで丹羽氏の居城となった。
慶応4年(1868年)戊辰戦争が勃発、奥羽越列藩同盟に参加した二本松藩は、侵攻してきた新政府軍に城を包囲され僅か1日で落城、藩主・丹羽長国は米沢に逃亡の後降伏、石高を半減されたが藩は存続した。
明治5年(1872年)明治政府の発した廃城令によって破却、廃城となった。















