城の歴史
三浦氏の一族で相模国の御家人・佐原義連は、奥州征伐の恩賞として会津四群を源頼朝から与えられ、義連の孫・経連が猪苗代を領して猪苗代氏を称するようになると、建久2年(1191年)亀ヶ城を築き、以後、14代盛胤まで猪苗代氏代々の居城となった。
会津領を支配する蘆名氏も佐原義連の血統で、猪苗代氏とは同族であったが、猪苗代氏は本家である蘆名氏に対して反逆と従属を繰り返し、天正17年(1589年)摺上原の戦い直前に猪苗代盛国が伊達政宗に内応、蘆名氏を滅亡に追い込んだ。
天正18年(1590年)豊臣秀吉の奥州仕置により伊達氏は会津領を退去、盛国も猪苗代を離れる事となり約400年にも及ぶ猪苗代氏の支配が終焉した。
その後、会津領主は度々代わるが会津領の重要拠点である猪苗代城は、江戸幕府の一国一城令の際も例外として存続が容認され、領主家中の有力家臣が城代として置かれた。
慶応4年(1868年)戊辰戦争が勃発、新政府軍が会津領へ侵攻すると、猪苗代城代・高橋権大夫は城を焼き払い若松へ撤退、猪苗代城は城としての役割を終えた。
















