城の歴史
天正3年(1575年)長篠・設楽ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍に武田軍が大敗した後、武田家の親族衆・穴山信君(梅雪)は織田軍の甲斐侵攻に備えるため、躑躅ヶ崎から本拠を移すべく要害の七里岩台地上への築城を武田勝頼に進言した。
天正9年(1581年)勝頼は家臣・真田昌幸へ新府城の普請を命じ、年末には勝頼も躑躅ヶ崎館から未完成の新府城へ移住した。
天正10年(1582年)2月、勝頼の義理の弟である木曾義昌が信濃で謀反に及ぶと勝頼は激怒し、これを鎮圧するため諏訪へ出兵した。
織田信長は義昌の反乱を武田家討伐の好機と考え動員令を発令、信長・信忠父子は伊那方面、信長家臣・金森長近が飛騨方面、同盟者の徳川家康が駿河方面、北条氏政も相模・伊豆・上野方面から甲斐・信濃へと侵攻を開始した。
武田領では織田方への寝返りや城を放棄しての逃亡が相次ぎ、勝頼率いる木曾討伐軍も織田軍の支援を受けた義昌軍に敗北を喫したため、勝頼は新府城への撤退を余儀なくされた。
3月、織田軍は追撃の手を緩めず武田氏本拠の甲斐国へ進軍、勝頼は未完成の城では持ち堪えられないと判断し、新府城を放棄して火を放ち、一門衆・小山田信茂の岩殿城へと向かったが、笹子峠で信茂の謀反に遭うと、天目山へ追い詰められ自刃、武田家は滅亡した。
6月、明智光秀の謀反により信長が落命(本能寺の変)すると、武田家の遺領を巡って徳川氏と後北条氏の争奪戦(天正壬午の乱)が勃発、新府城は戦略上の重要拠点となった。
天正18年(1590年)小田原の役で後北条氏が滅亡すると、新府城も廃城となった。











