城の歴史
延長5年(927年)従五位下・下野国押領使を叙任した藤原秀郷が関東に下向し当城を築いたと伝わる。
その後、5代に亘って居城したが、6代・成行が足利荘に移ったため一時廃城となった。
治承4年(1180年)9代・俊綱の弟・成俊は佐野氏を称し唐沢山城を再興、以後、佐野氏の居城となった。
古河公方・足利晴氏に仕えていた15代当主・佐野昌綱は、主家が衰退すると関東に威を振るう相模の北条氏康に従属、しかし、越後の上杉謙信が関東侵攻を本格化させると北条氏から離反し上杉氏と結び、上杉謙信の北条氏本拠・小田原城攻囲戦にも参陣した。
昌綱の子・宗綱は上杉氏の養子に入った弟・虎松丸と不和となり上杉氏と敵対、天正4年(1576年)虎松丸に加勢した上杉謙信は1万5千の大軍で唐沢山城を攻囲するが、佐野氏は一族の結城氏・小山氏・皆川氏などの援軍に助けられ上杉軍を撤退させた。
その後も9度にわたり上杉軍の攻撃を受けたがいずれも退け、堅城として名高い唐沢山城は一度も落城する事はなかった。
天正15年(1587年)17代当主・佐野宗綱は長尾顕長との合戦で討死、跡継ぎがなかったため北条氏康の六男・氏忠を養嗣子に迎え北条氏と和睦、佐野氏忠を名乗らせて家名を保った。
天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐では、当主・佐野氏忠は小田原城に籠城、氏忠を養子とする事に反対し佐野氏を出奔していた15代当主・昌綱の弟・佐野房綱は豊臣方として唐沢山城内の北条勢を一掃した。
戦後、房綱は佐野氏の家督と所領を継ぐが、子がなかったため、豊臣家臣・富田信高の弟・佐野信吉を養嗣子として家督を譲り隠居した。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで徳川家康に与した信吉は、旧領を安堵され佐野藩が成立、慶長12年(1607年)本拠を築城中の佐野城へ移し唐沢山城は廃城となった。

























