城の歴史
天文14年(1545年)那須氏の重臣・大田原資清によって築城され、明治4年(1871年)の廃藩置県に至るまでの326年間、大田原氏の居城となった。
天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐の際、大田原城主・大田原晴清は逸早く秀吉に謁見し所領を安堵されたが、主家である那須氏の当主・那須資晴は参陣せず改易処分となった。
戦後、晴清は奥州仕置の途中で大田原城に着陣した秀吉に那須氏の再興を願い出るため、資晴の息子・資景を伴い謝罪した。
那須資景は新たに秀吉から五千石を与えられ、那須氏は小領主ながら再興する事が出来た。
慶長5年(1600年)関ケ原の合戦で東軍に属した大田原晴清は、石川重次・内藤忠清らを奉行とした歩卒千人余りを大田原城に迎え、陸奥国境の城郭修造の任にあたった。
また、援軍として皆川隆庸・服部正成らが大田原城に入り、対上杉用の備えとして長筒の大砲十挺が配備され、戦後、正成が大田原城を去る際には徳川軍の大砲十挺のうち三挺がそのまま大田原城に与えられた。
慶長7年(1602年)下野国芳賀郡・那須郡、陸奥国磐城郡に四千五百石を加増され、一万二千四百石を領する大名となり大田原藩を立藩した。
戊辰戦争において最後の藩主・大田原一清は新政府軍についた。
このため、地理的に東北に近いこの地は旧幕府方の東北諸藩に狙われる事となり慶応4年(1868年)5月、会津藩の攻撃を受け三の丸が焼失したが落城は免れた。
明治4年(1871年)廃藩置県により廃城となった。



















