Castle record

大田原城

(おおたわらじょう)別称:龍城・龍体城・前室城

Castle information

大田原城の基本情報

訪城時の記録をもとに、所在地・史跡情報・現地の見どころをまとめています。

所在地
栃木県大田原市城山2
史跡指定
指定情報の記載なし
現在の状態
龍城公園
主な遺構
土塁・空堀・虎口・門跡
主な見どころ
坂下門跡からの登城口/大手口の土塁/大手口坂下門跡の三日月堀
訪城写真
16枚掲載
坂下門跡からの登城口
坂下門跡からの登城口

城の歴史

天文14年(1545年)那須氏の重臣・大田原資清によって築城され、明治4年(1871年)の廃藩置県に至るまでの326年間、大田原氏の居城となった。
天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐の際、大田原城主・大田原晴清は逸早く秀吉に謁見し所領を安堵されたが、主家である那須氏の当主・那須資晴は参陣せず改易処分となった。
戦後、晴清は奥州仕置の途中で大田原城に着陣した秀吉に那須氏の再興を願い出るため、資晴の息子・資景を伴い謝罪した。
那須資景は新たに秀吉から五千石を与えられ、那須氏は小領主ながら再興する事が出来た。
慶長5年(1600年)関ケ原の合戦で東軍に属した大田原晴清は、石川重次・内藤忠清らを奉行とした歩卒千人余りを大田原城に迎え、陸奥国境の城郭修造の任にあたった。
また、援軍として皆川隆庸・服部正成らが大田原城に入り、対上杉用の備えとして長筒の大砲十挺が配備され、戦後、正成が大田原城を去る際には徳川軍の大砲十挺のうち三挺がそのまま大田原城に与えられた。
慶長7年(1602年)下野国芳賀郡・那須郡、陸奥国磐城郡に四千五百石を加増され、一万二千四百石を領する大名となり大田原藩を立藩した。
戊辰戦争において最後の藩主・大田原一清は新政府軍についた。
このため、地理的に東北に近いこの地は旧幕府方の東北諸藩に狙われる事となり慶応4年(1868年)5月、会津藩の攻撃を受け三の丸が焼失したが落城は免れた。
明治4年(1871年)廃藩置県により廃城となった。

坂下門跡からの登城口
坂下門跡からの登城口
大手口の土塁
大手口の土塁
大手口坂下門跡の三日月堀
大手口坂下門跡の三日月堀
大手口坂下門跡の枡形
大手口坂下門跡の枡形
北郭
北郭
北郭の土塁
北郭の土塁
主郭西側の虎口
主郭西側の虎口
主郭内から見た西側の虎口と土塁
主郭内から見た西側の虎口と土塁
主郭の土塁
主郭の土塁
主郭
主郭
台門跡(主郭南側の虎口)
台門跡(主郭南側の虎口)
二郭側から見た台門跡
二郭側から見た台門跡
主郭と二郭間の空堀
主郭と二郭間の空堀
主郭と二郭間の空堀
主郭と二郭間の空堀
二郭
二郭
二郭の土塁
二郭の土塁