城の歴史
正和4年(1315年)塩谷頼安により築かれたと伝わるが、塩谷氏系図には頼安の名が記載されておらず、その詳細は分かっていない。
永禄7年(1564年)塩谷氏当主・塩谷義孝が、実弟の塩谷孝信によって殺害され、塩谷氏の本拠・川崎城を奪われた。
義孝の長子・塩谷義通(側室の子のため庶子とされていた)は、叔父で重臣の岡本正親の支援を得て川崎城の奪還を目指した。
永禄9年(1566年)義通の弟・塩谷義綱(正室の子のため嫡子とされていた)が、母の実家の宇都宮氏やその盟友・佐竹氏の支援を受けて川崎城を奪還し、塩谷氏の家督を継ぐ事となったが、幼年だったために庶兄の義通が繋ぎの当主となり、川崎城に入った。
天正2年(1574年)元服し、塩谷氏の家督を継いだ義綱は川崎城主となり、義通を御前原城の城代とした。
義通に近い重臣の岡本正親は、義綱から疎んじられ追放処分となったが、流浪の末、京都で面会がかなった豊臣秀吉の後援を得て、塩谷家臣として復帰した。
天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐に塩谷家の名代として参陣した岡本正親は、直接参陣しなかった主君・塩谷義綱の謀反を秀吉に訴えた。
秀吉から塩谷家所領の泉十五郷を与えられた正親は、塩谷氏からの独立を果たすと、甥で娘婿の塩谷義通も中村郷と木幡郷合わせて約千石の所領を以って御前原城で独立した。
文禄4年(1595年)川崎城の塩谷義綱が豊臣秀吉によって改易処分となり、御前原城の塩谷義通が塩谷氏の家督を継承した。
慶長3年(1598年)塩谷義通が没すると、嫡男・義保は岡本家を継いでいたため、次男・保真が塩谷氏の家督を継いで御前原城主となった。
正保元年(1644年)泉騒動(江戸幕府の旗本・岡本義政が、叔父・塩谷保真を謀略により殺害し、岡本氏が改易されるきっかけとなった事件)が勃発し、これにおいて保真が殺害されると保真に跡継ぎがいなかったため断絶し、御前原城は廃城となった。









