城の歴史
鎌倉時代、武蔵七党に数えられる村山党の支族である金子家範の長子・高範が入間郡難波田郷を与えられ難波田氏を称して居館を構えたのが始まりと伝わる。
天文15年(1546年)北条氏との河越夜戦において主家である扇谷上杉当主・上杉朝定と当主の難波田憲重が討死し難波田氏が没落すると、上田朝直の一族・上田周防守左近の知行地となった。
永禄3年(1560年)越後の上杉謙信が大軍を率いて関東に侵攻してくると北条氏に与していた岩付城主の太田資正もこれに応じて、北条氏から離反し敵対するようになった。
難波田城は太田資正が支配していたため、北条氏の家臣・清水政勝が河越城衆として難波田城を攻撃した事を「清水正花武功覚書」に記している。
永禄7年(1564年)7月、太田資正は親北条派の嫡男・資房(後の氏資)の裏切りによって岩付城を追放され、難波田城も北条方の城となった。
天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐によって開城し廃城となった。








