城の歴史
永享年間(1429年~1441年)常陸守護職の小田氏に属する若泉(今泉)三郎が築城したと伝わる。
永正13年(1516年)小田氏第14代当主・小田政治の家臣・菅谷勝貞が城主・若泉五郎左衛門を討ち取り土浦城を奪取、政治は信太範貞を城主として配した。
大永4年(1524年)信太範貞が病没したため範貞の養子となっていた勝貞(後に菅谷姓に復姓)が信太氏を継いだため城主となった。
永禄12年(1569年)佐竹氏との手這坂の戦いで惨敗した主君・小田氏治が居城・小田城を失うと、土浦城主の菅谷政貞は、氏治を土浦城へ迎え入れた。
天正11年(1583年)佐竹氏の激しい攻撃に晒されていた小田氏治が佐竹氏に臣従すると、菅谷氏もこれに従い土浦城は佐竹氏の支配下となった。
天正18年(1590年)関白・豊臣秀吉による小田原征伐が進行していた時期に、土浦城の菅谷範政は小田氏治とともに佐竹氏の小田城を略奪する動きを見せた事で、北条氏滅亡後、秀吉に所領を没収された。
秀吉は、徳川家康を240万石で関東に入封させると、養子としていた家康の次男・秀康を黒田孝高の取り成しにより結城晴朝の姪と婚姻させて、北関東の名家・結城家の家督と結城領11万1000石を継がせた。
土浦城も結城秀康の支配下となり、城代に多賀谷村広が置かれた。
関が原合戦後の慶長6年(1601年)、結城秀康は越前国北庄68万石に加増転封となり、徳川譜代の松平信一が3万5000石で土浦城に入城し土浦藩を立藩した。
元和3年(1617年)土浦藩2代藩主・松平信吉が上野国高崎へ移封となり、大坂の陣で功績のあった西尾忠永が2万石で入城した。
慶安2年(1649年)忠永の跡を継いだ西尾忠照が駿河国田中藩に加増転封となり、下野鹿沼から朽木稙綱が3万石で土浦城に入った。
寛文9年(1669年)朽木稙昌は丹波福知山藩に加増移封となり、代わって徳川家光に仕えて若年寄に栄進した土屋数直が4万5000石で入った。
天和2年(1682年)土屋政直が藩主の時、駿河田中藩へ移封となったが、代わって入った松平信興が、貞享4年(1687年)に大坂城代に任じられ摂津に国替えとなり、政直が再び土浦城主に復帰した後は、土屋氏10代の支配が続き明治維新を迎え土浦城は廃城となった。















