城の歴史
慶長7年(1602年)10万石の大名であった伊予国正木城城主・加藤嘉明が、関ヶ原の戦いでの戦功により20万石に加増され、伊予川の灌漑工事などで功績のあった家老・足立重信を普請奉行に任じ、道後平野の中枢部にある勝山に築城を開始した。
慶長8年(1603年)10月、嘉明が正木城より居を移すと、「勝山」を「松山」と改称し、城名も松山城となった。
寛永4年(1627年)嘉明は会津藩へ加増転封となり若松城へ移り、入れ替わりで会津から後継者騒動で減封となった蒲生忠知が、24万石で入封し松山藩主となった。
寛永11年(1634年)8月、忠知が参勤交代の途上、京都藩邸で病没すると、忠知には嗣子がなかったため蒲生家は断絶となり、松山城は大洲藩主・加藤泰興の預かりとなった。
寛永12年(1635年)7月、伊勢国桑名藩主・松平定行が4万石を加増され、伊予松山藩15万石の藩主となり松山城に入城、以降、明治維新まで松平氏の居城となった。










