城の歴史
永禄4年(1561年)小田原北条氏討伐のため関東に出兵していた長尾景虎(上杉謙信)は、鎌倉府の鶴岡八幡宮において上杉憲政から山内上杉家の家督と関東管領職を相続し、名を上杉政虎(謙信)と改めた。
この時、忍城の成田長泰も政虎に従い従軍していたが、関東管領の就任式で長泰が下馬しなかったために政虎に扇で烏帽子を打ち落とされるという恥辱を受け、立腹した長泰は無断で陣を引き払い忍城へ戻った。
このため輝虎は成田長泰の離反に備え、忍城の目と鼻の先に皿尾城を築いて羽生城主・木戸忠朝の次男・木戸監物入道玄斎を置き成田氏の動向を監視させた。
皿尾城は成田氏の反抗に備えながら短期間での急造の城であったため、城というよりは砦の様な規模であった。
政虎が越後へ帰国すると、忍城主・成田長泰や唐沢山城主・佐野昌綱、同族の深谷城主・上杉憲盛までもが北条方に寝返り、皿尾城の木戸玄斎も成田長泰に同心し上杉氏から離反した。
永禄6年(1563年)武蔵国へ侵攻した上杉輝虎(永禄4年12月将軍義輝の一字を賜り政虎より改名)により忍城の出城となっていた皿尾城は焼き討ちにされ廃城となった。
本拠・忍城も攻撃を受け降伏し、成田長泰は隠居を強いられた。










