城の歴史
延徳2年(1490年)扇谷上杉家に属する忍一族を滅ぼした山内上杉家麾下の豪族・成田親泰によって築城された。
天文21年(1552年)1月、関東管領・山内上杉憲政は、関東に勢力を伸ばす相模国の北条氏康に領国の上野国を攻められ居城・平井城を放棄し、越後国の長尾景虎(上杉謙信)を頼り落延びた。
天文22年(1553年)北条氏に反発する山内上杉家方の忍城主・成田長泰を討伐するため、氏康は忍城に兵を進めたが攻略に失敗する。
しかしこの後、衰退の一途を辿る主家・山内上杉家を見限った長泰は、北条氏に降伏し、その配下となった。
永禄3年(1560年)北条氏討伐のため三国峠を越えて関東侵攻を開始した景虎(謙信)に、北条方の長泰は抗戦の構えを見せたが、景虎軍に城下を焼払われて降伏、景虎に従い小田原攻めに参陣した。
永禄4年(1561年)景虎は北条氏の本拠・小田原城を一ヶ月間に亘り包囲したが陥落させるには至らず鎌倉府に退陣、上杉憲政の要請により鶴岡八幡宮で関東管領就任式を執り行ない、山内上杉家の家督と関東管領職を相続し、名を上杉政虎と改めた。
長泰も就任式に参加していたが、政虎の不興を買ったために兵を率いて忍城へ帰陣、以降は再び北条氏の麾下となった。
永禄6年(1563年)再び関東に侵攻してきた上杉軍に忍城を攻められ降伏、城主・長泰は隠居を命じられ嫡男・氏長に家督を譲った。
永禄9年(1566年)上杉輝虎(政虎から改名、後の上杉謙信)は臼井城や和田城の攻略に相次いで失敗し、さらには箕輪城が陥落、関東で上杉氏が劣勢となると深谷上杉氏、由良氏、富岡氏、館林長尾氏、皆川氏、宇都宮氏など、関東の上杉方諸将が北条氏に降伏し、忍城の成田氏も同様に北条氏へと寝返った。
天正2年(1574年)上杉軍に忍城を包囲されるが持ち堪えた。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による北条討伐が行われ、北条方の忍城主・成田氏長は兵五百を率いて小田原城に入城、甥・成田長親を城代として家臣や農民ら約3千名が忍城に籠城した。
忍城を一望する丸墓山古墳に本陣を置いた豊臣方総大将・石田三成は力攻めを開始したが苦戦したため、味方の損害を最小限に抑えるべく利根川を利用した水攻めを慣行、総延長28キロメートルに及ぶ石田堤を建設した。
しかし、城方の謀略により堤が決壊、豊臣方の兵3百余りが溺れ死ぬなど損害を出し、三成の水攻めは失敗に終わった。
北条本拠・小田原城が落城後も持ち堪えていた忍城は、北条方の城の中で唯一、落城に至らなかった。
徳川家康の関東入封後は、深溝松平家、東条松平家、大河内松平家、阿部氏、奥平松平家と藩主を代え、明治4年(1871年)松平忠敬が藩主の時、廃藩置県によって忍城は廃城となった。




























