城の歴史
鎌倉時代前期、源頼朝の推挙によって信濃守に補任された甲斐源氏一門・小笠原長清は、子の小笠原時長に伴野荘を与え地頭に任じた。
時長が伴野姓を称してこの地に居館を構えた事が伴野城の始まりと伝わる。
八代執権北条時宗の死後、有力御家人・安達泰盛と、内管領・平頼綱の対立が激化した。
弘安8年(1285年)11月17日、頼綱勢の先制攻撃により合戦となったが、泰盛勢は敗北、泰盛とその嫡子・宗景、弟・長景以下安達氏一族は滅ぼされてしまう。(霜月の乱)
安達泰盛の母が伴野氏の祖・時長の娘であったため、伴野氏三代当主・伴野長泰も討ち取られ、所領は没収となり伴野氏の嫡流は途絶えた。
元弘3年(1333年)鎌倉幕府が滅亡すると、再興の機を伺っていた伴野氏支族の伴野長房は、後の征夷大将軍・足利尊氏の側近・高師直に近づき、京都での地位を確立していった。
南北朝争乱期には師直の指揮下に属して数々の武功を挙げ、伴野氏の失地を回復し、悲願の再興を果たした。
文明11年(1479年)予てより争っていた同族・大井氏との合戦に勝利し、大井政朝を捕虜とした前山城主・伴野光利は、翌文明12年(1480年)には伴野城主・伴野貞棟を討取った。
光利は伴野城に氏族である野沢氏を配すると、伴野城は整備・拡張が進められ野沢城と呼ばれるようになった。
天正10年(1582年)武田家の遺領を巡っておきた徳川氏と後北条氏の争乱(天正壬午の乱)の際、徳川家臣・依田信蕃が佐久郡に侵攻、後北条氏に与した伴野氏の野沢城を攻略すると、本拠・前山城に進軍、城主・伴野信守、嫡子・貞長も落命し、小笠原伴野氏は滅亡、伴野城も廃城となった。











