城の歴史
南北朝時代、信濃国一ノ宮諏訪神社大祝諏訪氏一門・諏訪継宗の子・貞信が伊那郡高遠を領し、高遠氏を称するようになった。
この頃には高遠氏の本拠とされていたため、南北朝期には高遠城の発祥となる居館などが築かれていたと推測される。
天文11年(1542年)7月、当主の高遠頼継は、本家の諏訪頼重を裏切り甲斐の武田晴信(信玄)と謀って諏訪領へ侵攻すると、諏訪氏本拠・上原城を攻撃した。
頼重が武田氏に滅ぼされると、諏訪領は武田氏と高遠氏で分割し領有する事となったが、頼継は諏訪領全土を掌握するべく、同年9月、武田領となった上原城を攻略し諏訪領全土を手中にした。
晴信はすぐさま軍勢を諏訪に差し向け諏訪宮川辺で高遠軍を撃破、諏訪領は武田氏の支配下となった。
天文14年(1545年)4月、伊那へ侵攻した武田軍に高遠城を包囲され頼継は降伏、高遠城は武田氏の属城となった。
天文16年(1547年)高遠城を信濃攻略の拠点として重要視した晴信は、軍師・山本勘助や秋山信友に命じて大改修を行った。
永禄5年(1562年)晴信の庶子で諏訪氏の娘を母とする四郎勝頼(武田勝頼)が諏訪氏を継承、伊那郡代に任命され高遠城主となった。
元亀元年(1570年)信玄の嫡男・武田義信が廃嫡となり、継嗣となった勝頼が、本拠・躑躅ヶ崎館に移ったため、高遠城主には信玄の実弟・武田信廉が任命された。
天正2年(1574年)信廉は、兄・信玄の死後、帰国を願う父・信虎の身柄を引き取り高遠城に住まわせた。
天正9年(1581年)武田勝頼は、対織田・徳川の重要な軍事拠点である高遠城主に異母弟の仁科盛信を任じた。
天正10年(1582年)武田親族衆で木曾福島城主・木曾義昌の織田方への寝返りを機に信長の武田討伐が本格化、盛信が3千で籠城する高遠城には織田信忠率いる5万の大軍が迫った。
信忠は地元の僧侶を使者に立て、降伏・開城を促す書状と黄金を盛信に送ったが、盛信はこの要求を拒絶し、使者である僧侶の耳と鼻を削ぎ落とし追い払った。
盛信の所業に激怒した信忠は高遠城の総攻撃を開始、岩倉家出身の織田信家を討取るなど、城方は少数ながらも勇戦奮闘したが、数で圧倒する織田軍に城門を突破され守備隊は玉砕、城主・仁科盛信も討死し、高遠城は落城した。
武田家滅亡後、高遠攻めで功を挙げた織田家臣・毛利長秀が高遠城主となったが、本能寺の変によって信長が横死すると、武田旧臣で織田方に寝返っていた木曾義昌が高遠城を攻撃、長秀は所領を放棄し尾張へと逃亡すると義昌は高遠城を占拠した。
徳川家康の支援を受けた武田旧臣・下条頼安は高遠城の攻略に成功し、木曾義昌は深志城に撤退した。
江戸時代になると高遠藩の藩庁となり、京極氏・保科氏・鳥居氏と城主が交代、元禄4年(1691年)内藤清枚が3万3千石で入封後、高遠城は内藤氏8代の居城として明治維新を迎えた。




















