北条氏康
小田原を本拠とする後北条氏の当主。河越城救援のため出陣し、連合軍を破った。
天文15年(1546)。河越城をめぐり、後北条氏と両上杉氏・古河公方勢が激突した、関東戦国史の大きな転換点。
武蔵国・河越|1546年河越合戦は、後北条氏が占拠していた河越城を奪還しようとした扇谷上杉朝定が、山内上杉憲政・古河公方足利晴氏らと連携して城を包囲し、これを救援した北条氏康が連合軍を破った戦いです。一般には「河越夜戦」の名で知られ、後北条氏が武蔵国で優位を確立していく大きな契機となりました。
後世には「大軍を少数の北条軍が夜襲で破った戦い」として広く語られました。一方、兵力数や夜襲の具体像は後年の記録による部分が大きく、川越市も近年、夜戦そのものを疑問視する研究を紹介し、市立博物館では「河越合戦」と表記しています。このページでは、よく知られた伝承と現在の慎重な見方を分けて紹介します。
河越城は長禄元年(1457)、扇谷上杉持朝の命を受けた太田道真・道灌父子によって築かれ、長く扇谷上杉氏の重要拠点となりました。しかし天文6年(1537)、北条氏綱が河越城を攻略。城を失った扇谷上杉朝定は、松山城などを拠点に勢力の回復を図ります。
天文14年(1545)、朝定は山内上杉憲政、古河公方足利晴氏らと連携し、後北条方の北条綱成らが守る河越城を包囲しました。川越市の資料では、連合軍が砂久保付近に陣を構えたことや、東明寺付近が激戦地として伝えられていることが紹介されています。
小田原を本拠とする後北条氏の当主。河越城救援のため出陣し、連合軍を破った。
河越城を守備した後北条氏の有力武将。長期の包囲に耐えた城方の中心人物とされる。
扇谷上杉氏当主。河越城奪還を目指したが、この合戦で討死し、扇谷上杉氏は事実上滅亡した。
山内上杉氏と古河公方。朝定と連携し、後北条氏に対する大規模な包囲陣を形成した。

北条氏綱が扇谷上杉氏の河越城を奪取。上杉朝定は河越を失い、松山城などへ退いたとされます。
扇谷上杉朝定、山内上杉憲政、古河公方足利晴氏らが連携し、北条綱成らが守る河越城を包囲しました。
氏康が河越へ進出。後世の軍記では和睦を装って敵を油断させた後、夜襲を仕掛けたと語られますが、具体的な戦法や兵力数には諸説があります。
後北条方が勝利し、扇谷上杉氏は事実上滅亡。山内上杉氏や古河公方の関東での影響力も弱まり、後北条氏の武蔵支配が大きく前進しました。
河越合戦後、河越城は後北条氏による武蔵国支配の重要拠点となりました。川越市の文化財資料でも、天文15年の戦いで両上杉氏・古河公方勢の反撃を退けた後、河越城が後北条氏の武蔵支配の一翼を担ったことが説明されています。
ただし、河越合戦一度ですべてが決したわけではありません。その後も武蔵・上野では後北条氏と上杉方の抗争が続き、松山城など北武蔵の城郭をめぐる争いは繰り返されました。
合戦の中心となった城。現在は本丸御殿や土塁、富士見櫓跡、中ノ門堀跡などが残ります。
Googleマップで見る ↗川越市指定史跡。東明寺周辺は激戦地だったと伝えられています。
Googleマップで見る ↗山内上杉憲政が陣を敷いた場所と伝わり、市指定史跡となっています。
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