Castle record

大胡城

(おおごじょう)

Castle information

大胡城の基本情報

訪城時の記録をもとに、所在地・史跡情報・現地の見どころをまとめています。

所在地
群馬県前橋市河原浜町
史跡指定
県指定史跡
現在の状態
本文・写真で現地の様子を紹介
主な遺構
土塁・空堀・石垣・虎口・土橋
主な見どころ
二郭虎口枡形/枡形の石垣/二重土塁の堀底道
訪城写真
10枚掲載
二郭虎口枡形
二郭虎口枡形

城の歴史

天文年間(1532年~1555年)に築城されたとされ、藤原秀郷の子孫であり、東毛地方で勢力を扶植していた豪族・大胡氏の居城であった。
「吾妻鏡」の建久元年(1190年)の記事に大胡太郎の名前が見えるので、鎌倉時代初期にはすでにこの地域の有力な支配者であったと思われる。
天文10年(1541年)~永禄2年(1559年)頃、新田金山城の横瀬氏(由良氏)の勢力が強大となり圧迫されるようになったため、大胡氏は当地を放棄し北条氏を頼って江戸牛込城に移ったという。
新田金山城主・横瀬国繁方となった大胡城には、配下の益田氏(大胡氏と同じ秀郷系藤原氏と伝)が居城した。
その後、上杉・北条の抗争の中で、大胡城も転変にさらされ、横瀬成繁が北条方に寝返ると上杉謙信は大胡城を攻め落とし、配下の北条高広を城主として入れた。
しかし、北条高広も謙信を裏切り小田原北条氏に寝返るが、越・相同盟が成立すると高広は謙信に許され、厩橋城(前橋城)に復帰した。
高広は前橋城を子・景広に譲り、自身は大胡城に隠居したと言われている。
天正6年(1578年)上杉謙信が急死し、長尾氏系の景勝と、北条氏政の実子で謙信の養子になっていた景虎が家督を巡って対立(御館の乱)した。
この戦いで小田原北条氏と親しい高広は景虎に与して出兵したが、厩橋城主・景広は越後で戦死し、景虎も敗北したため、天正7年(1579年)2月、内藤昌月らを通して武田勝頼に従属した。
この時、厩橋城には北条高広、大胡城には北条高広の親族とみられる大胡高繁が入った。
天正10年(1582年)武田勝頼も織田信長の武田征伐により滅亡、その後、信長の家臣・滝川一益が上野一国を与えられて厩橋城(前橋城)に入りこの地方を支配したが、本能寺の変で信長が殺害されると、北条氏直と対立(神流川の戦い)、敗北を喫した一益は、自身の所領・伊勢を目指して上野を退去した。
天正11年(1583年)9月、沼田城の真田昌幸と連携し独立を保っていた北条高広の厩橋城が北条氏邦に落とされ、この地方は厩橋城に入った氏邦の支配下に置かれることとなる。
天正18年(1590年)関東地方で最大勢力を誇った小田原北条氏も、豊臣秀吉による小田原征伐で滅亡、大胡高繁の所領も没収され、戦後は徳川家康が関八州の支配者となった。
大胡城には徳川氏家臣の牧野康成が2万石で大胡城に入城したが、元和2年(1616年)牧野氏は越後長峰に5万石に加増移封され、大胡領は前橋城主酒井氏の管轄となり、それにより上部構造物が撤去されて大胡城は廃城となった。

二郭虎口枡形
二郭虎口枡形
枡形の石垣
枡形の石垣
二重土塁の堀底道
二重土塁の堀底道
二郭の空堀
二郭の空堀
二郭土塁前の城址案内板
二郭土塁前の城址案内板
空堀
空堀
主郭土塁
主郭土塁
主郭の石垣土塁
主郭の石垣土塁
主郭空堀
主郭空堀
主郭虎口の土橋
主郭虎口の土橋