城の歴史
築城年代など、詳細不明。
戦国時代に那波宗俊の命により赤石左衛門尉によって築かれた赤石城が発祥とされる。
天文10年(1541年)那波宗俊は深谷上杉家・足利長尾氏・厩橋長野氏・成田氏・桐生佐野氏と連合し、新田金山城の横瀬泰繁を攻撃するが失敗に終わる。
その後、小田原北条氏に寝返り山内上杉家を攻めると、周辺諸勢力は横瀬氏と共に宗俊を攻めるが、小幡氏など西上野の諸氏が離反し、関東管領・上杉憲政は越後国に追われた。
永禄3年(1560年)関東管領・上杉憲政を奉じ上野に侵攻した長尾景虎(上杉謙信)によって赤石城・那波城が陥落、宗俊は降伏したが北条方の有力与党とみなされ所領を奪われて間もなく没した。
永禄4年(1561年)那波氏の所領は横瀬氏(後に由良氏に改姓)に与えられ赤石城も横瀬氏の持城となったが、後に横瀬氏は北条氏に寝返った。
天正11年(1583年)由良氏は北条氏直より佐竹氏攻略の拠点として、新田金山城と館林城の借用を申し入れられ、由良氏の当主・由良国繁は了承したが、これに反発した家臣は国繁らの母・妙印尼を擁立して新田金山城に籠城したため、国繁は小田原城に幽閉され、赤石城も北条家の持城となった。
天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐で北条氏が滅ぶと、関東に入封した徳川領となり、赤石城は徳川家の管理下に置かれた。
慶長6年(1601年)稲垣長茂が上野佐位郡に所領を与えられ赤石城に入城、1万石の大名として伊勢崎藩を立藩し藩庁を置いたが、元和2年(1616年)に大坂の陣の戦功によって伊勢崎藩第2代藩主・稲垣重綱が越後藤井藩2万石に加増移封となったため廃城となった。
天和元年(1681年)4代将軍・徳川家綱のもとでに大老を務めた酒井忠清の三男・酒井忠寛が兄・酒井忠挙より2万石を分与され、前橋藩の支藩的な性格を帯びて伊勢崎藩が再立藩、稲垣氏が藩庁を置いた伊勢崎城を改修し陣屋として取立てた。
その後伊勢崎藩酒井氏は8代続き、明治維新を迎え廃城となった。





