城の歴史
大永年間(1521~1524年)今川氏親が尾張進出の拠点として築いた柳ノ丸(名古屋城二の丸辺りと伝わる)が発祥と考えられます。
城主には今川那古野氏の家督を継いだ氏親の末子・今川氏豊が置かれた。
享禄5年(1532年)勝幡城主・織田信秀は謀略を用いて氏豊を追放し柳ノ丸を奪取、拠点を移すと那古野城と改名した。
天文3年(1534年)信秀は那古野城を生まれたばかりの嫡男・吉法師(織田信長)に譲り、あらたに築城した古渡城に拠点を移した。
天文24年(1555年)信長は叔父・織田信光に那古野城を譲り清洲城に拠点を移したが、翌年に城主・信光が近臣の坂井孫八郎により殺害されたため、信長の筆頭家老・林秀貞が城主に任ぜられた。
天正8年(1580年)8月、城主・秀貞は、信長から謀反の罪を問われて追放され、天正10年(1582年)頃には廃城となった。
慶長15年(1610年)徳川家康の命により西国諸大名の助役による天下普請(幕府が諸大名に行わせた土木工事)で名古屋城の築城が開始された。
普請奉行の牧長勝は、荒れ地となっていた那古野城跡地を縄張りに組み込み、城域とした。
石垣は加藤清正、寺沢広高、細川忠興、毛利高政、生駒正俊、黒田長政、木下延俊、福島正則、池田輝政、鍋島勝茂、毛利秀就、加藤嘉明、浅野幸長、田中忠政、山内忠義、竹中重利、稲葉典通、蜂須賀至鎮、金森可重、前田利光といった大名が工事を分担し、僅か4カ月余で完成した。
最も高度な技術を要した天守台石垣は築城の名手として名高い加藤清正が担当した。
慶長17年(1612年)までに大天守が完成し、元和2年(1616年)頃までには清洲城から尾張清洲藩主で家康の九男・義直が移り都市機能を移転、尾張藩が成立し、その後17代260年余りの間、徳川御三家の筆頭格であった尾張徳川家の本拠となった。
慶応元年(1865年)14代将軍・徳川家茂が第2次長州征伐のため上洛の途中、名古屋城本丸御殿に宿泊した。
明治4年(1871年)7月14日、明治新政府の廃藩置県により尾張藩(この頃は名古屋藩と言われていた)は廃藩となり、名古屋県となった後も破却される事なく城郭は保存された。
太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)5月14日、米軍の名古屋空襲によって金鯱、大天守、小天守、本丸御殿、東北隅櫓、正門などが焼失した。
昭和34年(1959年)大天守・小天守・榎多門が鉄骨鉄筋コンクリート造で再建され、復元された金鯱とともに名古屋市のシンボルとなった。
平成30年(2018年)本丸御殿の復元が完成、柱、屋根、障壁画、細部の装飾に至るまで忠実に復元され一般公開されている。
















