城の歴史
永正16年(1519年)、甲斐武田氏18代当主・武田信虎により築かれた。
以降、晴信(信玄)・勝頼と三代62年間に渡り、甲斐統治の首府として武田氏の居館となった。
館の背後には詰城である要害山城が配置された。
天正9年(1581年)、親族衆筆頭の穴山信君の進言により勝頼は家臣の真田昌幸に新府城の普請を命じ、年末には新府城へと移った。
天正10年(1582年)3月、織田信長の甲州征伐により武田氏が滅亡すると、甲斐には信長の家臣・河尻秀隆が入府し、躑躅ヶ崎館において政務を執ったとされている。
同年6月、明智光秀の謀反(本能寺の変)によって織田信長が落命すると、織田に服属していた地侍や小大名が織田家に反旗を翻すなど各地は大混乱に陥り、甲斐にいた秀隆も混乱に巻き込まれ命を落とした。
その後、甲斐には徳川家康が入府し、躑躅ヶ崎館を甲斐支配の拠点として館域を整備拡張、天守も築かれたという。
天正17年(1589年)頃、家康は新たな甲斐の首府となる城の築城を家臣の平岩親吉に命じ甲府城の築城が企図されたが、天正18年(1590年)、小田原の役によって後北条氏が滅亡すると、家康は関東へ移封となった。
甲斐には豊臣家の家臣が入府し、甲府城の築城が本格的に進むと、それまで甲斐の首府であった躑躅ヶ崎館はその役目を終えた。














