城の歴史
天正17年(1589年)頃、徳川家康の重臣・平岩親吉によって甲府城の築城が企図されたが、天正18年(1590年)、小田原の役によって後北条氏が滅亡すると、家康は関東へ移封となった。
天正18年(1590年)7月、甲斐には豊臣家臣・羽柴秀勝が入府し、関東へ移封となった徳川家康への抑えとして甲府城の築城を開始した。
翌年、秀勝は美濃へ転封(一説には病没)となったため、甲府には豊臣家臣・加藤光泰が入府、甲府城の築城も本格化し、殿舎・本丸・稲荷曲輪・館曲輪など中心部の開発が進められた。
文禄2年(1593年)朝鮮出兵中に西生浦の陣中で加藤光泰が病没すると、豊臣秀吉は朝鮮で功績のあった浅野長政・幸長親子に甲斐国府中21万5千石を与えて甲府城に入府させた。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いが勃発すると幸長は徳川家康の東軍に属し岐阜城を攻略するなど活躍、戦後、紀伊国和歌山37万6千石を与えられ加増転封となった。
慶長8年(1603年)徳川義直(家康の九男)が城主となったが慶長12年(1607年)には義直が清洲へ転封後に城番制となった。
元和2年(1616年)秀忠の二男で駿府城主・徳川忠長の支城となったが寛永9年(1632年)に忠長が死去すると、再び城番制がしかれた。
寛文元年(1661年)に徳川綱重(家光の三男)、延宝6年(1678年)には徳川綱豊(綱重嫡男)が城主となる。
宝永元年(1704年)綱豊は将軍世嗣として江戸城入りし、徳川家宣と改名した。
宝永2年(1705年)柳沢吉保が城主となり、初めて親藩以外の領地となった。
享保9年(1724年)柳沢吉里(吉保の嫡男)が大和郡山へ転封、甲斐国は幕府領となり甲府勤番を設置した。
慶応2年(1866年)勤番制を廃止し城代を設置、上野高崎藩主・松平輝照、相模小田原藩主・大久保忠礼、信濃松代藩主・真田幸民などが歴任した。
明治元年(1868年)明治維新の際は甲府城代の信濃松代藩主・真田幸民が新政府軍に恭順したため板垣退助らが無血入城、明治6年(1873年)に廃城となった。















