城の歴史
築城時期や築城者など、詳細は明らかではない。
永正11年(1514年)置賜の伊達稙宗に一時占拠されたという文献が残されており、それ以前には城砦的な役割を担う縄張りがあったと考えられる。
その後、最上領西南の守りとして、本沢川から導水し深堀をめぐらし土塁を築くなど、強固な城砦に整備された。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦の際、西軍に与した会津の大大名・上杉景勝は東軍に与する山形城の最上義光が秋田実季と結び上杉領を挟撃しようとする形跡があるのを知り、重臣・直江兼続を総大将に二万五千の軍勢を最上領に侵攻させた。
畑谷城を陥落させた兼続は、最上氏本拠・山形城攻略のため、山形城防衛において最も重要な支城である長谷堂城を攻めた。
最上側は最上義光の重臣で智将と名高い志村光安が約一千の手勢をもって篭城、半月に及ぶ上杉勢の猛攻撃を凌いでいた。
志村光安の善戦で戦が長引く中、関ヶ原で石田三成率いる西軍が敗北したとの報せが届き、上杉勢は撤退を余儀なくされる。
戦後、長谷堂城は坂光秀に与えられ、光秀の没後は子・光重が継いだが、元和8年(1622年)3代藩主最上義俊の代に家中不取締りの罪により最上氏は改易、幕府は周辺諸藩に軍勢を出させ、各城の受け取りをさせたのだが、皮肉にも長谷堂城の受け取りを担当したのは上杉景勝であった。
長谷堂城は収公後に破却され廃城となった。


















