城の歴史
鎌倉時代に当地を治めた吾妻太郎助亮によって築城されたと伝わるが伝説の域を出ない。
後に助亮系の吾妻氏(前期吾妻氏)は姿を消し、下川辺氏末裔とされる吾妻氏(後期吾妻氏)がこの地を支配したが、南北朝時代に南朝方の攻撃で当主行盛が戦死、その子・千王丸は秋間斎藤氏の斎藤梢基に庇護され、山内上杉氏の偏諱を受け斎藤憲行と名乗った。
戦国時代、吾妻氏の子孫と称する斉藤憲次が、主君の大野憲直を討って岩櫃城を奪い、その子・斉藤憲広は岩櫃城を拠点として吾妻郡一帯の地侍を支配下においたという。
永禄6年(1563年)上州侵略を目論む甲斐の武田信玄は、岩櫃城の攻略を重臣の真田幸隆に命じた。
城主・斎藤基国(または憲広)は堅城を利して奮戦したが落城、岩櫃城は武田氏の手中に落ち、信玄は幸隆に吾妻郡の守護を命じた。
天正2年(1574年)幸隆が世を去り長子の信網が岩櫃城主となったが、翌年、長篠の戦で信綱、昌輝兄弟が戦死したため、真田家は幸隆の三男、昌幸が相続し岩櫃城主となった。
その後、昌幸の長男・信幸が支配し、信幸の弟・信繁(幸村)も、少年時代をこの城で過ごしたといわれている。
天正18年(1590年)北条氏の滅亡により、信幸は初代沼田城主となり、岩櫃城は沼田城の支城として、重臣・出浦対馬守を城代とした。
慶長20年(1615年)江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の発した一国一城令により廃城となった。















